安田康彦 栗東・宇田明彦厩舎所属でデビュー。初騎乗は1991年3月2日の中京競馬第2競走でロンググレート。同年3月16日の中京競馬第3競走で同馬にて初勝利を飾る。 重賞初勝利は1992年の札幌3歳ステークスでテイエムハリケーン騎乗にて挙げた。 1999年の秋華賞でブゼンキャンドルに騎乗し、12番人気の低評価を覆して、自身初のGI勝利となった。レース後の勝利騎手インタビューでは「穴を開けてしまってすみません」と笑顔で話した。2002年の菊花賞でも16番人気のファストタテヤマを2着に導くなど、重賞競走での穴男的存在であった。 後に宇田厩舎から父の安田伊佐夫厩舎に移籍。父譲りの高い騎乗センスを持ち「穴ジョッキー」として人気のある騎手だったが、素行にはかなりの問題があり、調教に酒を飲んだまま参加したり、調教を無断で休み、厩舎関係者や調教助手からクレームや叱責が相次ぐなど数々の問題を起こしていた。 2000年9月には札幌競馬遠征中に札幌市内の市道を酒気帯び運転で法定速度を34キロオーバーし、道路交通法違反で北海道警察に現行犯逮捕された。JRAの裁定委員会は安田に2ヶ月間の騎乗停止処分を命じた。この処分を受け、メイショウドトウの2000年のオールカマーと天皇賞(秋)には的場均が騎乗することとなった。 2005年頃からGIジョッキーにも関わらず急激に騎乗数が減った。父の厩舎からの騎乗依頼も激減するなど厳しい状況になり、2006年4月30日を以って騎手を引退した。引退届けは父親が出した。引退後は一時行方不明となっていた。 2007年9月5日、京都市東山区のコンビニで店員を恐喝したとして京都府警察東山警察署に逮捕された。この際、報道された安田の身分は「京都市東山区の自由業」であった。事件当日発行の夕刊フジのインタビューに対し父の伊佐夫は「親子の縁を切っています」と勘当宣言を行い、この事件を機に絶縁した。 |
マヤノトップガン 日本の元競走馬、種牡馬である。主な勝ち鞍は菊花賞、有馬記念、宝塚記念、天皇賞(春)の4つのGI競走で、それぞれを違う戦法で勝つという変幻自在の脚質が特徴であった。菊花賞、有馬記念を勝った1995年には年度代表馬に選ばれている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A4%E3%83%8E%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%AC%E3%83%B3 |
サンエイサンキュー 明けて4歳(当時表記・現在の3歳)となった1992年も休むことなくレースに出走し、初戦の2月2日のクイーンカップで重賞初制覇を飾る。その後は牡馬クラシックのトライアル弥生賞にも出走したが6着。この後桜花賞では2番人気に推されるが7着。この頃と前後して、億単位の身売り話が出て来たと言われる。田原成貴との新コンビで臨んだ優駿牝馬ではアドラーブルの2着に敗れたが、直線で一旦は先頭に立つなど見せ場を作った。その後、夏期を休養にあてることなく相次いで重賞に出走。7月5日の札幌記念に出走し、古馬を相手に勝利を収める。その後函館記念で8着、サファイヤステークスで優勝、ローズステークス2着、GIエリザベス女王杯5着。加藤和宏騎乗で出走した有馬記念でのレース中に右トウ骨手根骨複骨折のため競走中止した。競走馬としての実績だけでなく、過酷なローテーションで次々と重賞競走に出走した挙句、故障を発症したことでも知られる。 エリザベス女王杯の直前は疲労の蓄積によって体調に変調をきたし、トウ骨に痛みを訴えるようになったという(ちなみにそのことは田原も察知しており、サンエイサンキューの体調に関して歯に衣着せぬ言動をとっていた。そうした発言は田原と馬主および厩舎スタッフとの対立、さらにはいわゆるサンエイサンキュー事件を引き起こすこととなった)。 オークス出走後、休養を取ることなく出走を続けていたサンエイサンキューの体調について不満を抱いていた田原はローズステークス出走前から、同馬の体調が思わしくないというコメントを繰り返していた。エリザベス女王杯の調教後もテレビのインタビューで体調は思わしくないとコメントしたが、録画が終了した際に「こんなに悪く言っちゃって、これで勝ったら頭を丸めなきゃなんないな」と発言した。 |
Author:ROM厨
▼当サイトの掲載記事・文章・画像等は2ちゃんねる掲示板からの転載です。
掲載されている文章・画像に関して何か問題があればメールでご連絡下さい。
確認後、適切な対処を取らせていただきます。